SCENE 01 / 16
扉絵
― ヒデさんのこと ―
ナレーション
こちらが、この紙芝居の主人公、ヒデさんです。
今年で78歳。今は介護施設で暮らしています。窓際の席が好きです。静かな人です。あまり多くを語りません。けれど、長い人生を歩いてきた人です。
誰にでも人生があります。嬉しかった日も。悲しかった日も。忘れられない出来事も。
今日は、そんなヒデさんの人生を、少しだけ一緒に辿ってみようと思います。
語り
人は、年を重ねるほど、自分のことを話さなくなるのかもしれません。
若い頃のこと。夢中になったこと。忘れられない思い出。
本当はたくさんあるのに、自分からは語らなくなる。だから私たちは、つい今の姿だけを見てしまいます。
けれど、どんな人にも物語があります。子どもだった頃があります。若かった頃があります。悩んだ日があります。笑った日があります。誰にも話していない思い出があります。
この物語は、特別な英雄のお話ではありません。どこにでもいた、ひとりの人のお話です。
紙芝居師トーク
皆さん、このヒデさんのお顔を見てください。どんな人に見えますか?頑固そうですか?優しそうですか?
人の顔って、面白いものでね。見れば見るほど、分からなくなるんです(笑)。
さて。この静かなヒデさん。いったい、どんな人生を歩いてきたのでしょう。まずは、今のヒデさんから見てみましょう。
(めくり)
SCENE 02 / 16
動かないヒデさん
― 窓際の定位置 ―
ナレーション
こちらが、ヒデさんです。窓際の、いつもの席です。
施設では、体操の時間が始まっています。みなさん、手を上げたり、肩を回したりしています。職員さんも、大きな声をかけています。
けれども、ヒデさんは動きません。椅子に腰をかけたまま、ただ静かに、窓の外を眺めています。今日も。昨日も。たぶん、その前の日も。いつものように。
語り
人は、見た目だけでは分からないものです。元気よく話している人もいれば、静かに過ごしている人もいます。
ヒデさんは、どちらかというと後の方でした。誰かと話している姿も、あまり見かけません。体操にも参加しません。
だから、「何を考えているんだろうね」そう言われることもあります。
けれども、ヒデさんは、最初からこんな人だったのでしょうか。そんなはずはありません。誰にでも、子どもだった頃があります。夢中になって遊んだ日があります。好きな人ができた日もあります。
紙芝居師トーク
どうです?みなさんの近くにも、こんな人いませんか?集まりに来ても、ほとんどしゃべらない人。
こちらが一生懸命話しても、「うん。」「そうだな。」で終わっちゃう人(笑)。
でもね、案外そういう人ほど、若い頃の話を聞くと面白かったりするんですよ。
さて。この動かないヒデさん。昔はどんな子だったのでしょう。少しだけ、時間を巻き戻してみましょうか。
(めくり)
SCENE 03 / 16
何描いてるの?
― 鉛筆を握った日 ―
ナレーション
その日、ヒデさんの机の上に、白い紙と鉛筆が一本置かれました。
いつも窓の外ばかり見ていたヒデさん。ところがその日は違いました。おもむろに鉛筆を握ると、何やら描き始めたのでした。
語り
不思議な光景でした。あれほど人付き合いを避けていたヒデさんが、誰に言われるでもなく、自分から鉛筆を握ったのです。
一本の線。また一本の線。やがて白い紙の上に、大きな屋根が現れました。柱が立ち、窓が入り、縁側ができていきます。
気がつけば、ヒデさんの机のまわりには、小さな人だかりができていました。
「ヒデさん・・・何描いてるの?」
するとヒデさんは、描きかけの絵を見つめたまま、ぽつりと言いました。
「家だ。」
たった三文字でした。けれど、その言葉の奥には、まだ誰も知らない、ヒデさんの人生が眠っていたのです。
紙芝居師トーク
みなさん、自分が子どもの頃に住んでいた家、思い出せますか?玄関はどっち向きでした?縁側はありました?
案外、思い出せそうで、思い出せないもんなんですよね。
でもヒデさんは違いました。迷いなく、鉛筆を走らせたんです。
さて・・・その家とは、いったいどんな家だったのでしょうか。
(めくり)
SCENE 04 / 16
絵ばかり描いていた少年
― 昭和の夏 ―
ナレーション
その家は、ヒデさんが生まれ育った家でした。
昭和の夏。扇風機がぶんぶん回る畳の部屋。ランニングシャツに半ズボン姿のヒデ少年は、広告の裏紙を広げて、夢中で絵を描いていました。
その様子を、お母さんが黙って見守っています。
語り
ヒデ少年は、とにかく絵を描くのが大好きでした。学校から帰ってくると、まず鉛筆を探します。広告の裏。包装紙の裏。カレンダーの裏。紙があれば、何でも絵を描いてしまう。
描いて、描いて、描いて、また描く。
お母さんは、「また散らかして・・・」そう言いながらも、本気で叱ることはありませんでした。なぜなら、その横顔が、本当に楽しそうだったからです。
そんな少年時代が、確かにあったのです。
紙芝居師トーク
皆さん、子どもの頃、何か夢中になったものはありましたか?野球?メンコ?ビー玉?それとも漫画?
大人になると、忘れちゃうんですよねぇ。でも不思議なもので、本当に好きだったことだけは、心の奥に残っている。
さて、絵ばかり描いていたヒデ少年。このあと、どんな青春を送るのでしょうか。
(めくり)
SCENE 05 / 16
大工になりたかった
― 夢の始まり ―
ナレーション
絵を描くことが大好きだったヒデ少年。やがて大きくなると、なりたい仕事がありました。
それは、大工さんでした。大学へは進まず、ヒデさんは大工修行の世界へ飛び込んだのでした。
語り
子どもの頃から、ヒデ少年は家を見るのが好きでした。屋根の形。柱の太さ。縁側の長さ。障子から差し込む光。
高校を卒業する頃、ヒデさんの心は決まっていました。
「俺は大工になる。」
大工の世界は厳しい世界でした。朝は早い。仕事は重い。失敗すれば叱られる。
それでもヒデさんは、弱音を吐きませんでした。木が好きだったからです。そして何より、一本の線が、本当の家へ変わっていく瞬間が好きだったからです。
紙芝居師トーク
皆さん、若い頃に、「これになりたい!」と思った仕事はありましたか?
ヒデさんは、追いかけた人でした。絵を描くのが好きだった少年が、今度は本物の家を造る側になったんです。
さて、仕事にも少し慣れてきた頃。ヒデ青年の人生に、もうひとつ大きな出会いがやってきます。もっと大きな音を鳴らす、ある出会いでした。
(めくり)
SCENE 06 / 16
エレキにしびれた
― トミー誕生 ―
ナレーション
その頃、日本中にエレキブームが巻き起こっていました。若者たちは、エレキギターの音に夢中になっていました。そして、ヒデ青年もまた、そのひとりだったのです。
語り
テレビをつければエレキ。ラジオをつけてもエレキ。街を歩けば、どこからともなく、テケテケテケ・・・。
ある日、その音を聴いた瞬間、身体に電気が走ったような気がしました。
「これだ!」
大工見習いの給金をコツコツ貯め、ついに憧れのエレキギターを手に入れました。
昼はトンテンカン。夜はテケテケテケ。仕事が終わると仲間が集まり、夢中で練習しました。
大工見習いのヒデ青年は、いつしか仲間たちから「トミー」と呼ばれるようになっていったのでした。
紙芝居師トーク
どうです皆さん。若い頃、寝るのも忘れるくらい夢中になったこと、ありましたか?
昼はトンテンカン。夜はテケテケテケ。なんだか、昭和の青春そのものじゃありませんか。
さて、ギターを手にしたトミー。実はこのあと、人生を変える出会いが待っていました。ある日、ひとつのチョコレートが、トミーの運命を変えることになるのです。
(めくり)
SCENE 07 / 16
恋をしようぜ、トミー
― バレンタインチョコ ―
ナレーション
昼は大工。夜はエレキ。そんな毎日を送っていたヒデ青年。仲間たちと続けてきたバンド活動は、ついに人前で演奏する機会を迎えました。
地元で開かれたエレキパーティー。その夜、トミーの人生を変える出会いが待っていたのでした。
語り
初めてのエレキパーティー。会場には、たくさんの若者たちが集まっていました。
演奏が終わり、ほっと一息ついていた時です。ひとりの女性が、そっと近づいてきました。手には小さな包み。
「これ・・・」
チョコレートでした。
何を話したのかは覚えていません。けれど、その笑顔だけは、不思議と心に残ったのです。
人生には、あとになって思えば、「あの日からだったなぁ」という日があります。
紙芝居師トーク
みなさん、若い頃、恋をしたことありますよね?ありますよね?
好きな人の前だと、急に無口になっちゃう人。いますよね?逆に、やたら喋っちゃう人。いますよね?
恋って不思議なんですよ。始まる時は、いつも大したことないんです。たった一言だったり。たった一個のチョコレートだったり。
さて、チョコをもらったトミー。このあと、勇気を出して彼女を誘います。向かった先は・・・アソコです。
(めくり)
SCENE 08 / 16
初デートは赤提灯
― 帰りたくない夜 ―
ナレーション
チョコレートをきっかけに、少しずつ話をするようになった二人。
そしてある日、トミーは勇気を出して彼女を誘いました。向かった先は、町の赤提灯。
カウンターに並んで座る二人。けれど、なかなか会話が続きません。トミーは焼き鳥を持ったまま。彼女はおでんを前にしたまま。なんとなく照れているのでした。
語り
若い頃の恋というのは、不思議なものです。会いたい。話したい。そう思っていたはずなのに、いざ会ってみると、何を話していいのか分からない。
沈黙が続く。慌てて何か話す。また沈黙になる。
けれど、ひとつだけ確かなことがあります。二人とも、帰りたくなかったのです。
ただ、同じ時間を過ごしていることが、嬉しかったのです。若い日の幸せというのは、案外そんなものだったのかもしれません。
紙芝居師トーク
皆さん、初デートのこと、覚えてますか?
何を食べたかは忘れても、嬉しかったことだけは残っているんですよ。
トミーもきっと、この日の会話は忘れたかもしれません。でも、この日の気持ちは、ずっと忘れなかったんじゃないでしょうか。
さて。恋をしたトミー。この頃から、少しずつ変わり始めます。仕事にも。人生にも。勢いがついていくのです。
(めくり)
SCENE 09 / 16
任された棟上げ
― 秀吉になる日 ―
ナレーション
あの赤提灯の夜から、三年ほどが過ぎました。トミーは二十二歳になっていました。十八歳で大工の世界へ飛び込み、気がつけば修行も四年目。
恋もしました。仕事も覚えました。失敗もしました。叱られもしました。けれど、一度も逃げ出しませんでした。
そんなある日。親方が、ぽつりと言いました。
「今度の棟上げ、お前が中心になってやれ。」
棟上げ。それは大工にとって、特別な日でした。
語り
家は、一日では建ちません。土台を据え、柱を立て、梁を組み、たくさんの人の力が集まって、ようやく形になります。
迎えた当日。空は見事な青空でした。現場には活気が満ちています。掛け声が飛ぶ。木槌の音が響く。
その中心に、トミーがいました。もちろん、まだ親方ではありません。けれど、もう見習いでもありません。責任を任される人間になっていたのです。
無事に棟上げが終わった夕方。親方は、トミーの肩をぽんと叩きました。
「よくやったな。」
その頃からでしょうか。現場では、彼をトミーと呼ぶ声が、少しずつ少なくなっていきました。親方や職人たちは、こう呼ぶようになりました。
「秀吉。」
青春の名前だったトミーは、少しずつ、一人前の職人、秀吉になろうとしていたのです。
紙芝居師トーク
皆さん、若い頃、誰かに「お前に任せるぞ。」そう言われたこと、ありますか?
あれねぇ、嬉しいんですよ。でも、同じくらい怖いんです。
でも、人って不思議なもので、任されることで育つんですね。親方は、トミーを試したんじゃありません。信じたんです。
さて。トミーと呼ばれた若者は、この頃から、少しずつ秀吉になっていきます。仕事も。恋も。いよいよ人生の本番です。
(めくり)
SCENE 10 / 16
人生の春が咲いた日
― モモとの結婚 ―
ナレーション
棟上げを任されてから、しばらく経った頃のことでした。トミーは、ひとつの決心をします。好きな人と、人生を歩いていこう。そう決めたのです。
相手はもちろん、あの日、バレンタインチョコを渡してくれた人。桃子さんでした。
そして迎えた、人生の晴れの日。結婚披露宴の日です。会場には、親戚や友人、職人仲間たちが集まりました。
語り
人生には、春があります。本当の季節の春だけではありません。心に花が咲く春です。
秀吉と桃子も、そんな春を迎えました。若い二人には、お金もたくさんあったわけではありません。けれど、夢がありました。希望がありました。
この頃になると、現場では、もう誰もトミーとは呼びません。みんな、秀吉と呼ぶようになっていました。
けれど、桃子だけは違いました。誰も聞こえない時に、そっとこう呼んでいたそうです。
「ヒデ」
そして秀吉も、桃子のことを、こう呼んでいました。
「モモ」
この日、会場いっぱいに咲いていたのは、桜ではありません。秀吉と桃子の、人生の春だったのです。
紙芝居師トーク
皆さん、結婚式って不思議ですよね。主役は二人なんですが、実は、周りの人たちの人生も見えるんです。
だから結婚式は、二人だけのお祝いじゃない。みんなで歩いてきた時間のお祝いなんですね。
さて、人生の春が咲いた秀吉。ここから先は、働き盛り。家庭を守る男として、本当の人生の本番が始まります。
(めくり)
SCENE 11 / 16
夏の日のドライブ
― 白いカローラ ―
ナレーション
結婚して数年。秀吉とモモの家族は、少しずつ大きくなっていました。長男が生まれ、長女も生まれました。
仕事は忙しく、毎日があっという間に過ぎていきます。それでも、家族で出かける日だけは特別でした。
白いカローラに乗って、みんなでドライブ。この日は、榛名湖までやって来ました。
語り
若い頃、秀吉には夢がありました。一人前の大工になること。自分の家族を持つこと。そして、家族を幸せにすること。
夏の日。白いカローラ。後部座席では、子どもたちがはしゃいでいる。モモは窓の外を眺めながら、時々笑う。
秀吉はハンドルを握りながら、そんな家族の声を聞いている。それだけ。それだけなのに、何だか嬉しい。
榛名湖の風。子どもたちの笑顔。モモの優しい横顔。そして、白いカローラ。あの日の夏は、いつまでも終わらないような気がしていました。
紙芝居師トーク
皆さんにも、こんな写真はありませんか?旅行の写真。家族の写真。何十年も前の写真。
撮った時には、何とも思わなかった一枚。でも歳を重ねて見返してみると、不思議と胸が熱くなる。
人生というのは、成功した日よりも、幸せだった日の記憶で出来ているのかもしれませんね。
さて、人生の夏を駆け抜ける秀吉。まだまだ、働き盛りです。
(めくり)
SCENE 12 / 16
実りの富田家
― 家族四人 ―
ナレーション
季節は巡ります。春が来て、夏が来て、やがて秋が訪れます。それは、人生も同じです。
秀吉とモモが結婚してから、たくさんの年月が流れました。長男の正秀は、大学を卒業し、社会人になりました。長女の桃美も、高校を卒業し、大人への一歩を踏み出そうとしていました。
この日は、久しぶりに家族四人が揃った日でした。富田家の前で、記念の一枚。
語り
子育てというのは、不思議なものです。昨日まで小さな手を引いていたと思ったら、気がつけば、肩を並べて歩くようになっている。
秀吉は、大工として家を建ててきました。けれど、本当に大切だったのは、家族という家を育てることだったのかもしれません。
門柱の表札には、家族四人の名前。
富田秀吉。桃子。正秀。桃美。
何気ない表札です。けれど、そこには富田家の歴史が刻まれていました。この秋、富田家は実りの季節を迎えていたのです。
紙芝居師トーク
皆さん、親というのは不思議なものですね。子どもが生まれた時には、早く大きくなれと思う。けれど、大きくなると、少し寂しくなる。
でも、それでいいんだと思います。巣立つということは、ちゃんと育ったということですから。
さて、子どもたちは、それぞれの人生へ歩き始めます。そして、秀吉とモモには、久しぶりに二人の時間が戻ってきます。人生の秋は、寂しい季節ではありません。実りを味わう季節なのです。
(めくり)
SCENE 13 / 16
暖炉の前の二人
― 孫の写真 ―
ナレーション
季節は巡り、子どもたちはそれぞれの人生を歩み始めました。正秀は家庭を持ち、桃美もまた新しい暮らしを築いていました。
秀吉とモモは、久しぶりに二人だけの時間を取り戻していました。若い頃にはなかった静けさ。けれど、それは寂しさではありません。
語り
暖炉の火が、静かに揺れていました。外は冬。けれど部屋の中は暖かい。
モモの手にはスマホ。そこには、孫たちの写真が映っています。
「ヒデ、見て。」
モモがそう言う。秀吉は少し身を乗り出して、画面を覗き込みます。
「おう。」
それだけ。それだけなのに、二人は何だか嬉しそうです。
若い頃、トミーと呼ばれていた青年も、今ではすっかり白髪です。けれど、モモは相変わらずモモでした。笑う顔も。話し方も。人を和ませる空気も。昔と変わりません。
暖炉の火を見つめながら、秀吉は思います。自分は幸せな人生を歩いてきたのかもしれない。そんなことを、少しだけ思いました。
紙芝居師トーク
皆さん。人生には、頑張る季節があります。働く季節。子育てする季節。歯を食いしばる季節。
でも、その先には、こんな時間もあるんですね。暖炉の前で、連れ合いと肩を並べて座る。孫の写真を見て笑う。
特別なことじゃありません。けれど、本当はそれが一番の宝物なのかもしれません。
さて、穏やかな時間は、いつまでも続くように思えました。けれど人生は、時として突然、思いもよらない扉を開くことがあります。この暖かな夜のあと、富田家に忘れられない朝が訪れます。
(めくり)
SCENE 14 / 16
雪の朝
― モモとの別れ ―
ナレーション
ある寒い雪の朝でした。窓の外では、雪が静かに降り続いていました。
いつもなら、先に起きたモモがコーヒーを淹れてくれている時間です。けれど、その朝は違いました。家の中が、妙に静かだったのです。
語り
私は、いつものようにモモを呼びました。
「モモ。」
返事がありません。もう一度、呼びました。
「モモ。」
やはり返事がありません。
不思議に思って、居間へ向かいました。そして、私は立ち尽くしました。
モモは、私の前から姿を消してしまったのです。あまりにも突然に。あまりにも静かに。まるで、降り続く雪のように。
このあっけない出来事は、私を無気力にさせるには、十分すぎました。その日から、家の中の時間は、止まってしまったように思えたのです。
紙芝居師トーク
皆さん。人生には、どうしても受け入れられない朝があります。昨日まで当たり前だったものが、突然、当たり前ではなくなる朝です。
ヒデさんにとって、それがこの雪の朝でした。長い人生の中で、一番寒かった朝かもしれません。
けれど、人は不思議なものです。どんなに深い悲しみの中にいても、朝は来ます。昼も来ます。そして、また夜が来ます。ヒデさんもまた、そんな時間の流れの中で、一人きりの暮らしを始めることになるのでした。
(めくり)
SCENE 15 / 16
片付けられない時間
― 止まった時計 ―
ナレーション
モモがいなくなってから、季節は少しずつ過ぎていきました。雪は溶け、春が近づいていました。
けれど、私の時間だけは、あの雪の朝で止まったままでした。
語り
食卓には、モモが使っていた湯呑みがあります。コーヒーカップもあります。箸置きもあります。エプロンもあります。
何ひとつ、片付けることができませんでした。いや、片付けたくなかったのかもしれません。
そこにあると、モモがまだいるような気がしたのです。
朝になれば、「ヒデ、コーヒー入ったよ。」そんな声が聞こえてきそうで。玄関が開いて、「ただいま。」そんな声が聞こえてきそうで。
私は、一人で暮らしているはずなのに、どこかでまだ、モモを待っていました。
紙芝居師トーク
皆さん。失った人の持ち物を、すぐに片付けられる人もいます。何年経っても片付けられない人もいます。
どちらが正しいということではありません。その人には、その人の時間があります。
ヒデさんの時間は、まだ止まったままでした。食卓の湯呑みも。コーヒーカップも。モモとの思い出も。そのまま、そこに残っていたのです。
けれど、止まったままの時間にも、少しずつ変化は訪れます。やがてヒデさんは、人生で初めて、家を離れる決断をすることになるのでした。
(めくり)